ロイヤルブルー・スピカ

スピカへ向かう箱舟

無条件の愛を発するという事

先日までフリーダムディスティニー社主催のアセンション覚醒プログラムを受講していました。

 

毎回の講習でもいつも思いますが本当に内容が濃いよ…。

アセンションとは書いてあるけど予想通りというかやっぱりというか、アセンションの事だけじゃなかったので…笑

 

霊界のシステムの話とか輪廻転生のシステムの話とか、超おもしろかったです。

 

最初は『アセンションって今の私にはあんまりピンと来ないからまだ関係ないかも~』とか思ってたんですが、知識として知るだけでなく自覚として識るも含め、本当にありとあらゆるものが詰め込まれた、大変有意義なプログラムでした。

 

 

 

そのプログラムの最後に、『自分はいったい何者なのか、何者になろうとしているのか』という事を宇宙に向かって宣言する時間があり、その前準備として、自分から見た自分とはいったいどういったものなのかを書き出しました。

 

 

 

その上で宣言した『私は何者である』はこんな感じでした。

 

 

 

私は、純粋無垢であり、無条件の愛を体現する存在である。

 

私は、探求し、学び、知る喜びを体現する存在である。

 

私は、無条件の愛によって、私にしか発見出来ない可能性を見出し、それぞれにとっての北極星を指し示す道しるべである。

 

私は、それぞれが向かう先、たどり着いた先、それぞれが生み出したもの、答えにたどり着いた事を心から喜び、新たなステージに向かう事を祝福する存在である。

 

 

 

今出来ているかどうかは正直自分ではわからない所はありますし、先々変わっていく事もあると思いますが、それでも『今の私はこういう存在だ』『こういう存在でありたい』と宣言してしまう事で、私という存在はこういうものだという事が宇宙の中で確定するという感じですね。

 

純粋無垢の辺りは私の中ではまだ少し照れがあるんですけどね~ (*'∀')

 

 

 

そしたら今朝、親族からメールが来ました。

 

その親族は今まで生きて来た中で3・4回くらいしか会った事がない人で、顔も正直あまり覚えてないくらいの人です。

 

でも会う度に家族や他の親族の誰かしらが嫌な思いや腹立たしい思いをさせられていて、誰から聞いても嫌な話しか聞かないし、会った回数は少ないのに関わると必ずと言って良いほどその人やその周囲にある潜在的なものも含めた様々な火種を次々発火させていくので、正直に言って良い印象は皆無なのですよね…(;'∀')

ある意味、問題のあぶり出しが出来ると考えればあれなんですけど、本当にこれでもかってくらいドッカンドッカン徹底的にやられる。

 

メールの内容などは詳しくは書けませんが、休日の朝一番にこれか…と、最初は怒りや苛立ちもありました。

 

でもどう返信するか、そもそも返信するべきなのかを考えているうちに『これは宇宙からの問いかけだな』と思いました。

 

 

『お前の言う、無条件の愛を今ここで見せてみろ』と。

 

 

 

 

 

アセンション覚醒プログラムの中で、あや先生が私におっしゃった事があります。

 

 

『無条件の愛がないと、人の道しるべになる事は出来ません』

 

 

今日のその人と昨日のその人は違う人だととらえる事。

毎日どころか毎瞬新たなその人を見つけていく事。

その人の中の可能性を見い出す事。

その人の美しさを発見する事。

その人の事を新たに知れたという喜びを心から感じる事。

 

 

これらは無条件の愛がないと正しく現す事が出来ません。

 

 

確かにそうだと思いました。

 

『貴方にはこういう可能性がありますよ』と言うにしても、それが愛から少しでも外れたところ、私の中にあるエゴやジャッジから発せられるものであったとしたら、それはとても危険な言葉になってしまう可能性がある。

  

 

可能性を指し示したとしても結局はそれを選ぶかどうか決めるのは本人だから、言った方に責任はないという考え方もあるかもしれません。もちろんそれは自己責任でもあるでしょう。私に他者の人生や行く先を決める権限はありません。

 

でも、その言葉で相手の行く先をゆがめてしまう事もゼロではない。

 

自分自身が無条件の愛をもって、ただその人を愛する事が出来るかどうか、愛から言葉を発する事が出来るかどうかで、同じ言葉を使っていても全く方向性が変わってくる。

 

 

しかしながら、無条件の愛をもって相手と関わる事と、自分の責任範疇を超えてまで相手に尽くす事は全く違う事です。

 

自己責任という言葉の意味は『全て自分が責任を負う事』ではありますが、それは『自分が負うべき責任を100%負う事』であり、逆に言えば『他者が負うべき責任は絶対に一ミリたりとも負わない事』です。

 

自己責任を負うというのは、自分の手で自分の欲しい現実を創り出していく、自分の人生を、他者を含めたその他の存在に1ミリたりとも明け渡さない、という決意でもあります。

 

人は自分ひとり分の責任しか負う事が出来ません。それ以上を負う事、逆に負うべきを負わない事は、他者を含めたその他の存在からの自分の人生への干渉を許してしまう事でもあります。つまり自分自身が望む人生における現実創造に狂いが生じる事に繋がっていきます。

 

他人の手を煩わせたりしない事は、自己責任を負う事とはイコールではありません。他者を一切頼らない事と自立がイコールではないのと同じです。出来ない事を無理矢理自分だけでやろうとしたって良い結果にはならないしね。

 

自分の責任範疇を外れてまで行なう事は、自分自身の中心から外れていく事でもあります。自分自身の中心から発していない愛は無条件の愛とは言えないでしょう。

 

無条件の愛と言っても、なんでもかんでも『いいよ!私が全部やってあげる!』という事では当然ありません。愛をただ与えるにしたって愛にはいろんな形がある。

 

ある意味では自分でなにもかも全て抱えてしまったほうが楽な事もあるんですけどね。でも楽なのはほとんどの場合、表面的な事だけです。

 

表面的な問題は解決するかもしれません。でも根本の解決をしていない場合、今は楽でもいずれエスカレートして楽より苦の方が大きくなっていきます。苦が大きくなるという事はやっぱりそれは愛から純粋に発したものではないわけです。

 

相手に対して誠実である事、愛から発した言動をする事は相手がだれであろうと変わらないけれど、自分や相手の状況などによって、実際に現実として自分が出来る事やすべき事は当然変わって来ます。でも根本の態度は全員に対して決して変わらない。

 

 

 

 

その上で、この親族に私が出来る事はなんなのか。

逆に、出来ない事やするべきでない事はなんなのか。

 

 

自分の一側面としての他者。

今自分の目の前にいる人は、自分が持っているものと同じ一面を持った他者である。

 

その親族は、私がその人と同じ一面を持っているから、今私の前に存在している。

逆に、私と共通する部分が全くなければ、その人は私の前には現れない。

ならばその親族を私の前に存在させているのは、私自身であるという事。

 

目の前に選択肢を現わしてあげる事。

その上で『私に出来る事はここまで』と手を離し、選択を完全に相手に委ねる事。

相手の選択を尊重し、ただ受け止める事。

 

 

親族からのメールで、様々な事を実地で勉強させてもらったり、数年前の自分からの成長や変化を感じられたように思いました。