まーたいつの間にか休みが終わっとるうー。
夏休み何してました?
私は自宅で使ってたNASが休み初日にいきなり壊れまして、中身のサルベージ作業に殆ど丸々時間を費やしました。
中身は古い写真をスキャナで取り込んだデータとか、昔買った大量の紙書籍を自力で電子化したファイルとかだったんですが、そこにしか入ってなかったり、元になった現物はとっくに処分してしまっていたりするものが多かったので大変焦りました(;'∀')
昔受講したセミナーの資料とかも電子化して入れてたのでね……。ちょっとやりたい事があってその資料を見ようとしてアクセスしようとした矢先の出来事だったので、本当にサルベージできてよかったです。
全然知識もないLinux系OSなんかも触ったり、プロの方にアドバイスを頂いたりもしてなんとか全部のデータを自力で取り出せた時の安堵よ。
作業自体はちょっと楽しかったけど、それはそれとしてバックアップ!だいじ!デジタルは案外貧弱ですから、最低でも二重ぐらいにはしとかないとだめですね。
さてさて。
今日は体験する、という事について書いてみようかなと思います。
スピリチュアルの世界において、地球は我々で言うところのアミューズメントパークみたいなものと言われています。
地球という星全体が、あらゆる体験が出来るアミューズメントパークのようなもので、様々な事を自由に好きなだけ体験する権利を持って、生き物という形体で地球に生まれる事で、その形体でしか味わえない経験を数々得て、満足したらまた別の宇宙に行くのです。
満足出来なかったら死という形で転生して、また地球に生まれて、今までの人生で不満や物足りなさがあった部分を味わって、やりつくしたら地球という名のパークを出て宇宙へと帰っていく。
産まれるタイミングや場所、両親などの環境については、体験したいというその願いをかなえるのに最適なところを選んで産まれるようになっています。
死は逆で、この環境、この体で残りの願いをかなえるのは効率が悪い、一度リセットした方が早いなと思った時に訪れます。今地球で肉体を持って生きているという事は、持っている願いを今世でかなえる事をまだ諦めていないという事です。
地球で出来るあらゆる体験に含まれるものが何かというと、本当に色々あります。
色々というのは、人が人生で味わえるもの全てを指します。
気持ちがいい事も嫌な事も、良い事も悪い事も、人道にもとる事も、汚泥にまみれる事も、全て。
アミューズメントパークと言うから誤解を生むのかもしれないのですが、本当にあらゆる事全てです。だから楽しい事ばかりじゃない。
普通に考えれば嫌な事なんて体験したいわけがない。
でも『それを通じて体験したい感情や学びを自分の身をもって得て、本人なりの答えを見つけに来る』事が地球に生まれる意味です。
地球へおりる前に、今回の転生では何を学ぶか、何を体験するかを予め決めてからおりてきます。
前の人生でやり残した事があれば、それをもう一度やるため。
今までの人生でやった事がない事をやりたいなら、それをするため。
それが人間の常識や感覚や国の法律に照らし合わせて悪とされるものかどうかは関係なく、ただその人が体験したいかどうかの一点だけです。
良い事か悪い事か、快い事か不快な事かは関係がないのです。むしろそれを学びたくて、体験したくて、学べる環境や状況を選んで生まれて来ている。ただそれだけの事。(だからと言って犯罪行為などを許容するとか、そういう環境を選んで産まれてきたんだから受け入れろとか、そういう話ではないので、そこは誤解のないようにお願いします)
生まれる人すべてに平等に、地球ではどんな体験でも体験する権利が与えられている。
これは何人たりとも侵害できないものなのです。
自分から他者を見て『あいつは愚かな事をする』と思う事もあるでしょう。
でもその人は、体験する権利でもって自分自身でそれを体験しているだけ。誰にはばかる事などないのです。他者としては『あなたはそうなんだね』と受け止めてあげる事以外は基本的には必要ない事なのです。
相手が家族だと余計にそれが難しい部分もありますけどね。でも家族であってもそう。
自分自身だってそうなのです。
自分の人生は全て、体験する権利を行使して体験しているもの。
もうこんな体験たくさんだ!自分的に100%体験した!と思うまで体験は続き、体験のための選択を、誰しもが意識的あるいは無意識的に繰り返しています。
つまり逆に言えば、体験したい事しか現実に起こらないという事です。
現実は全て自分が引き起こしている事である、というのはスピリチュアルを学ぶ上の基礎として言われている事です。おそらくヒーラーさんであればどの先生に師事したとしても同じような事を言われたご記憶があるのではないでしょうか。
あまりこういう事を書かないほうがいいかなと思って控えていたのですが、新型コロナウィルス感染症対策としてのワクチン接種もそう。
私は3回打ちました。4回目が推奨されるとしたら普通に打つと思います。
否定派の人からは愚かな事を!と言われるかもしれません。今のところ直接はありませんが。
私個人の考え方としては、感染症を含む公衆衛生の問題というのは、個人の自由を守るためのものだと思っていますし、いつまで続くかわからないこの状況下で、24時間365日感染しないかビクビクしながら気を張って生きる方がしんどいし面倒くさいし、打たない事で周囲を巻き込む可能性があると思ったので打ちました。
私の場合、会社の経営者として社員さん達を守る義務としての面もありますが。
まあぶっちゃけて言えば努力嫌いのめんどくさがりだから打ちましたって事です。
1回目を打ってから1年、3回目からも4か月ほど経過しておりますが、特に何もありません。
ヒーラーさんの中にはワクチン否定派の人がそれなりにおられる事は理解しています。それぞれに考え方があっての事だと思います。それと同じで私にも考えがあって、それに従って打ちました。
先ほども書いたように、人は体験したい事を体験するために地球にいます。
私が打つと決めて実行したという事は、意識的か無意識的かは不明にしても、打った上で体験したい事があったという事だと思います。
逆に言えば打たないと決めた人は、打たない事で体験出来る事を体験したいから打ってない。誰にも邪魔する権利はない。
でも、打っても感染する方はするし、打たなくても感染しない方はしないです。
この違いはなんなのかは先ほどから言っているように、人は体験したい事を体験するために生きているからです。
打って感染した人は、打った上で感染する事によって学べる事や体験したい事、関連したカルマがあったから感染したという考えになりますし、打ってなくて感染した人は打たないという選択をした上で感染する事によって学びたい事や体験したい事やカルマがあったというだけ。
感染していない人は、感染から学びたい事や体験したい事、関連するカルマなどが単純にないなどの理由から感染しないだけ。
スピリチュアル的な観点でいえばただそれだけの事なので、肯定派と否定派で争っても意味はない事だと思います。
なおこの話はあくまでスピリチュアル的な観点で言えばの話ですので、医学的な話とかはまた別です。感染症に関する情報やエビデンスはきちんと専門のお医者さんのお話を聞いて下さい。全く専門外の方の情報をうのみにして不安がっている方も大変多く見受けられます。
『自分自身で考える事が大事』とはいいますが、専門外の事まで無理して理解しようとしても、専門外であるが故に理解を無意識に都合よくゆがませてしまう事も多く、あまりいい結果にはならない事が多いです。
専門家になるために何年もの勉強や訓練が必要な理由は、最低限知っておかなくてはいけない事や暗黙の了解というものを素地として持つためです。その素地がない人が、素地のないまま無理に理解をしようとするのは大変危険だと思います。