ロイヤルブルー・スピカ

スピカへ向かう箱舟

違いを愛するという事

正義というのは、自分にとっての正しさを過剰に他者に対して主張し、押し付ける事を言うのだそうです。

 

新型コロナウィルスに関連して、色んな主張が聞かれるようになってきましたが、考え方や捉え方が違う事、その違いを愛する事が上手くいかず、そのストレスで他者を攻撃してしまう方も同時に増えて来ているのかな、という気がしています。

 

正しさなんて、100人いたら100人それぞれに違いがありますし、それぞれが思うそれぞれの正しさを、誰に何を言われようとも関係なくきちんと持つのは自分軸で物事を考えられるという事でもあります。環境や事情もみんな違うしね。

 

でもそれをもってして『私が考える正しさ以外は正しくない!』とジャッジしてしまう事は、昨今ようやく進んできたように思える多様性の許容から外れていく行為だと私は思います。

  

時代が進んで多様性が進み、古い考えに縛られなくなったり、技術的な問題で実現不可能だったことが今は可能になっていたり、時代の流れの中でしがらみや枠組みを超えやすくなったケースももちろん多い。そういった事によって生きづらさが軽減されて行くのはとても素晴らしい事だと思います。

 

それでもあえて新しいものを選ばず、既存の考え方を選び続けるという自由もあります。

多様性が進むという事は古い考えを否定する事とイコールではなく、 既存の考え方だってそもそも別に悪ではない。

 

人それぞれに事情や好み、その人が今置かれているステージがどの段階にあるのか等も個人差がありますから、それに従った結果、新しい考え方を選択する自由もあれば、今までの古い考え方を今まで通り選択し続ける自由もあるわけです。(選びたくても選べないという話はまた別)

 

ただ単に色んな枠組みやしがらみ、固定観念などから解放されて選択肢が増える事、誰がどんな選択肢を選ぼうとも、その選択肢を選んだ事自体は否定されない世界というのが、真に多様性が進んだ、違いを愛し合える世界だと言えるのではないかと私は思っています。

 

 

それぞれが考えるそれぞれにとっての正しさというものをみんなもっているので、他者とは相容れない部分は必ずあります。

 

そうなった時に

 

『貴方はそうなのね』

『でも私はそうじゃない』

『貴方が自分の持つ正しさに正直に生きていけるよう応援するね。

私は私で自分の中の正しさに従って正直に生きていくよ』

 

とお互いの違いをただ受け止めるという、シンプルな話のはずなのですが、ジャッジであったり、思い込みであったり、ただ意見が違っただけの事を自分自身を否定されたように感じ取ってしまったりという事があると、受容ではなく反発を起こします。

 

 

 

自分だけが正しい、という思考にとらわれている状態は、大きな光の状態であると同時に大きな闇でもある状態です。光というのは強ければ強いほど、影も濃くなる。

 

 

太極図って多分見た事あると思うんですが、あれは『万物は陰と陽のバランスによって成り立つ』という意味の図形です。

 

図を見ると、勾玉のような形をした白(陽)と黒(陰)の絵があわさって1つの円になっていて、白の中には黒点が、黒の中には白点がありますよね。

 

光の中に闇があり、また闇の中に光がある。

白の中の黒点と黒い部分が繋がっていて、黒の中の白点と白い部分が繋がっているとされています。そしてそれによって陰陽のバランスが取れるのだそうです。

 

『私は光だ!!!私は正しい!!』と言ってしまうのは白の中の黒点を白で塗りつぶす、黒の部分とのつながりを断つとも言え、陰陽的に考えるとその状態は完全に片側へ寄っているので、バランスが非常に不安定な状態と言えます。

 

人間は、100%光だけの状態、または100%闇だけの状態にはなれないと言われています。少なくとも、現在の所、人間としてこの地球で生きている限りは。

アセンションによって光の存在になる事は可能ですが、今の所それが達成出来ている人は全人類の中でたった数人らしいです)

 

 

 

相手への愛や信頼を示すために、本当は理解も賛同してもいないのに賛同したように取り繕って見せるといったケースや、逆に『この意見に賛同できない人は私の敵なので見放します』と踏み絵をさせるかのように他者からの愛や寄せられている信頼の度合いをはかり、賛同者だけを囲い込み、反対者を拒絶し攻撃するケースも実際見ております。

 

 

相手の考え方に100%賛同する事だけが愛ではないし、わかり合う事だけが愛というわけでもない。

 

わかり合えなかったからと言ってそこに愛が存在しないかというとそれも違う。

 

相手とわかり合う事は、愛から来る行為のひとつの帰結です。

けれど、わかり合う努力をした結果、わかり合えなかった、分かり合えないという事がわかったとしても、それも愛から来るひとつの帰結でもある。

相手を理解できるかそうでないかと、そこに愛があるかないかは別の話です。

 

 

 

理解という点において、『人はそもそも分かり合えないものだ』『分かり合えるなんて幻想だ』『分かり合う事など出来ないと最初からあきらめておくのが賢明』という人もいます。

 

それも真理ではあると思います。

 

でも、相手の事を理解したい、理解して貰いたいという気持ちの出発点は、相手への愛です。

 

理解しようと頑張ったけれど分かり合えないという帰結にたどり着いた事で、愛を否定されたように感じてしまい、そのショックが傷になる事や、その傷の痛みから相互理解への道を閉ざしてしまう事でより大きな苦しみを抱える事もありますし、愛し合う事や理解し合う事をどうしても諦められずに苦しむ事もあります。

 

でもそれは愛がなかったとか、足りなかったとか、努力が足りなかったとか、そういう話ではなく、ただ違いがあったというだけの事。

 

違いがあっても愛し合う事は可能なんです。

 

相手の考えを受け入れられなくても、貴方にとってはそうなのか、とただ受け止める事。受け止めた先にあるジャッジをなくしていく努力をする事。それが違いを愛するという事に繋がっていくのだと思います。

 

理解しあえないまま一緒にいて傷つけあうよりも、相手が考える相手の正しさをただ受け止め、自分が考える自分の正しさを押し付けないために、お互いにとって心地よい距離を取って接する事を選ぶことだって、私は十分に愛だと思います。理解し合う愛となんら違いはないと私は思っています。

 

 

 

真の意味で違いを愛し、受け入れるという事が出来た時こそ、分離を超えたその先にあるワンネスに繋がるのではないかな、と思います。

 

(『理解と愛』というテーマにおいて苦しみやトラウマ等がある方には、LOVINGイノセントフロンティアの施術を受けて頂くと楽になれると思いますのでおすすめです)